日本メキシコ交流400年
400年の交流史は人命救助に始まります。
1609年9月
フィリピン諸島総督ロドリゴ・デ・ビベロの一団の船は、ヌエバ・エスパーニャ(当時のスペイン領メキシコ)への帰路、千葉県御宿沖で遭難し、317人が村人に救助されました。その後、ビベロは徳川秀忠と徳川家康との謁見となります。時の日本の為政者とメキシコからの政府高官が対面し、初の会談が行われた意義は大きく、家康がビベロ帰国のために造らせた船は、翌年に出航しました。ビベロと共に渡航した京の町人田中勝介ら一行は、メキシコを訪問した最初の日本人となりました。
支倉常長(はせくら つねなが)の慶長遣欧使節団の派遣
1614年
伊達政宗の命を受け、ヨーロッパに向かった支倉常長の遣欧使節団の船は、メキシコのアカプルコに到着し、温かい歓迎を受けました。一行の中には、そのままメキシコに残留した日本人がいました。メキシコ第2の都市のグアダラハラには、「デ・ナシオン・ハポン(日本国出身の)」と書かれた4人の人物の記録が見つかっています。
金星観測隊が外交関係樹立への道を開く
1874年
金星の観測のために来日したメキシコの観測隊は、横浜に観測所を設置しました。金星の観測は成功し、日本政府の手厚い待遇に感銘を受けたコバルビアス団長は、本国に日本との国交樹立を進言。これが、数年後の外交関係樹立に繋がりました。
メキシコとの平等条約締結が原動力に
1888年
日本は平等条約(日墨修好通商航海条約)を、アジア諸国以外では初めて、メキシコと締結しました。このメキシコとの平等条約の締結が、翌年の米国との条約改正をはじめ、西欧諸国との平等条約締結の原動力となりました。
メキシコは日本の中南米移住の先駆け
1897年
榎本武揚(えのもと たけあき)が派遣した植民団(榎本植民団)35人* が横浜港を出港し、メキシコ南部チアパス州に入植しました。これは日本から中南米への最初の組織的移住となりました。
※編集者注:出発時は36人、一人はサンフランシスコで下船し、一人はアカプルコで病死されており、現地に到着できたのは34人
メキシコは戦後の日本の国際社会への復帰を支援
1948年
国連総会でメキシコは日本との講和条約締結を提案し、1951年、サンフランシスコ講和条約を世界で2番目に批准。1952年に外交関係が再開され、駐日メキシコ代理大使として、メキシコを代表する詩人オクタビオ・パスが着任。パスは日本にとって、戦後初の二国間文化協定の締結など、両国の文化交流増進に尽力しました。