さくら E イペー
2000年8月30日、当ラテンアメリカ文化協会の前身のひとつである「京都ブラジル文化協会」の発足から10年間の歩みを綴る「さくら E イペー」が発刊されました。こちらでは「さくら E イペー」からの引用を主軸としてこれまでの京都とブラジルの親睦交流を書き起こしていきます。※さくら(桜)とイペー(ipê)は両国の国花です。
日本とブラジルの絆
日本とブラジルの関係は、実質的には1908年ブラジルへの移民から始まったといえる。サンパウロ州政府と日本政府間の契約により、第一回日本移民として契約移民781名、自由渡航者10名の791名が移民船・笠戸丸で1908年6月18日サントス港に到着。以後、1934年に移民制限法である「外国移民二分割当法」が新憲法で定められるまで紆余曲折を経ながら増え続けた。
その後、1942年第二次世界大戦勃発による中断までの期間に約20万人の移住者がブラジルへ渡った。この時点で戦前・戦後を通じて約25万人の日本移住者がブラジルに入国したのである。今日(2000年)では、移住者の子孫を含め、日系人の人口は、約100万人に達し、ラテン・アメリカにおける日系人総数の約85%がブラジルに集中しているのである。
戦後は1953年から61年頃までが全盛期となり、多い年には6〜7千人にも及んだ。しかし、日本国内の高度経済成長、ブラジルの不況、さらにブラジル政府の外国人移住を制限する政策により渡航者が減少した。とくに技術移住者入国優先に切り替えられたため、移住希望者には厳しい条件となった。
戦前の日本移民は約90%がコーヒー農園の契約農業移民であった。1930年代に至りコーヒー生産の衰退を契機に日系人による新しい生産技術、いわゆる「機械化農業」は綿花や米、蔬菜の大規模経営に発展したのである。また1935年から40年にかけての綿花景気のいちじるしい衰退などが日系人の他地域への移動を促したのである。
一方、職業構造においても、農業人口の相対的比率の低下と商工業人口の上昇が顕著に見られたが、農業・商工業比率は、農業が87%(1940年)を占めている。現在(1998年)においても較差に大きな変動が見られず、日系人のブラジル農業に対する貢献度は極めて高いのである。然し乍ら慢性的なインフレによる経済構造が乱れ、逆に “出稼ぎ” という世界共通語が罷り通る中で、日系人の日本への出稼ぎブームが渦巻いたのである。とりわけ、中南米主要国の経済回復の波に乗り遅れたブラジルは、インフレ抑制と経済安定化の兆しとともに推進途上にあり、潮目は大きく変わりつつある。“ブラジルの奇蹟” ともいわれた1960年代後半から1970年代半ばにかけての急激な成長。なかでも、自動車、 エレクトロニクス関連を中心とした工業分野の発展への加速は著しく、年率10%を超える驚異的な伸びを示した事実を認識せねばならない。
これまでの関わりが深い日本は、21世紀の大国としての成長の可能性を秘めているブラジルをもう一度見直す時と訴える親ブラジル派が多いのも事実だ。ブラジルを21世紀に向けて国際社会の中での重要なパートナーと位置づけ、一段と経済交流の促進が望まれるのである。かっての日本からの移民たちが、東も西も分からず、異なる気候風土、文化の中で幾多の苦難に耐え、真に五里霧中、まじめに働き、子弟の教育に熱心であったことが、今日のブラジル社会における日本人・日系人に対する評価が高いことについては論を持たないのである。加えて、戦後の日本の目を見張る復興と経済成長、技術革新による躍進こそ日本人・日系人がブラジルで尊敬と信頼を集めているのである。
対日感情は極めて良好。日本としても、きょうより明日へ。未来に向って大事に付き合っていかなければならない国・ブラジルである。国際社会の中で日本を常に強力にサポートしてくれる友人(アミーゴ)の国として。ブラジルは国際政治の世界で南米の大国であり、第3世界の中で確たる実力を持っていることを認識しなければならないのである。
日伯関係では、21世紀当初から日本の経済・技術協力が本格的に現実化されると予測される。農村灌漑、農村の電化、港湾の近代化、環境汚染防止、鉄道発展、工業近代化など様々の懸案の具現化とともに今後における日伯経済交流の柱となる。問題も多くある。日伯経済交流の実態と今後の可能性について、一部を除いてブラジル人の理解と認識不足は否めない事実である。しかし、日本が行っている資金、技術、雇用、人材教育訓練などを通じたブラジル社会への貢献についてのPR不足が危惧されている。将来を見据えて両国のために行うことは、視点を変えて、もう一度、相互間で “相手” を良く知り合うことが大切であり、人的交流こそが最も求められるのではないか。
最近の新しい動きとして注目度が高いのは、サッカーのJリーグと少し衰退したとはいえ、ブラジルからの出稼ぎ現象がそれである。ポルトガル語が日本国内で飛び交い、ブラジルレストラン、物産店の急増など経済交流とは別の面での草の根交流がさかんになっていることがあげられる。
日伯修好100周年の1995年から5年の歳月がすぎた。天皇皇后両陛下の訪伯をはじめ技術、学術、文化、芸術など積極的な民間交流は、日伯両国の距離を縮めるのにふさわしいものがあった。いま、日本で生活をしている日系三世、四世は明快に “ブラジル人” と応え胸を張るのである。それだけに、より人的交流を強め、日伯友好の絆を強くして、国際社会の中で相互がベスト・パートナーであることを認め合う関係の樹立こそいそがれるのである。
昨日よりきょう 今日より明日へ...
10年の歩み総集編
国際化の一番大きな関門は、いかにして正確な情報を取り入れ、集積、分析、その上で行動を決めるかにかかっている。しかし、民間交流は国家における "外交" とは違い、お互いに国と国の歴史、文化、 風土、習慣等を正しく学び、そして理解と信頼、協調からはじまる。京都ブラジル文化協会もまた、同じである。設立10周年。いま振り返るとき、ラテン・アメリカンの歴史・文化・風土・習慣等を知り、魅力と友情の中に大いなる希望を輝かせているのである。
京都ブラジル文化協会の発足
京都ブラジル文化協会は、1988年(昭和63年)日本人のブラジル移民80周年を記念して発足した。 からすま京都ホテルに京都市内に住む経済界、学識経験者、文化、芸術、マスコミ、行政など各界各層から錚々たる人たちが集まった。会長に森田嘉一京都外国語大学理事長・総長。副会長は平塚哲夫元京都府歯科医師会会長、有馬弘毅元京都府医師会会長。顧問は荒巻禎一京都府知事、今川正彦京都市長と京都府下唯一、ブラジルの都市と姉妹都市盟約を結んだ谷口義久亀岡市長。他に表千家千宗左家元、裏千家千宗室家元、稲盛和夫京セラ名誉会長、塚本幸一ワコール株式会社会長(京都商工会議所会頭)ら京都を代表する著名人が名を連ねたのである。
そのいずれもの人たちは "21世紀の大国ブラジル" 無限の可能性を秘めたブラジル、世界の民族(人種)が、世界の宗教が共生し、争いのない地球家族のモデルの国という意識のなかに、めばえた「ブラジル大好き」の人たちの集まりである。人、それぞれの思いは多彩であるが、京都ブラジル文化協会設立10周年は通過点。きょうから明日へ、20世紀から21世紀につなぐ京都とブラジルの交流史の10年の実績の歩みを日伯修好100周年記念事業を主軸に京都ブラジル文化協会の "素顔" を集積した。
京都ブラジル文化協会10年の歩み。それは3回にわたるブラジル親善訪問が、日伯修好100周年 記念事業の成功を演出したのである。国内に数多くある国際交流団体をして類例のない実績は輝かしい年輪を刻んだのである。
主な事業を羅列すると駐日ブラジル大使夫妻の京都、亀岡市への招待は京都ブラジル文化協会の存在感をアピールした。また堅苦しさから抜け出した遊び心での大阪や亀岡市での例会。亀岡市で開催の日本初の日本、ブラジル、アメリカの「さくらの女王・フェスティバル」への参加とブラジル・サンバチーム出演までの協力。ブラジル文化協会会員の絆から生まれた森田嘉一会長、平塚哲夫副会長の叙勲祝賀会開催。京都外国語大学創立50周年記念式典出席。京都国際交流協会総会出席。ブラジル関係企業の記念式典への代表出席。さらに移民90周年式典の開催など枚挙にいとまがない活動ぶりである。
とりわけ、日伯修好100周年記念事業は、国家レベルの企業をも圧する価値ある事業であった。この成功は、未来永劫に日伯交流史の一頁に刻まれるにふさわしい成果であったといえる。例えば、日本国内でブラジルの都市と姉妹都道府県、市町村関係は11都道府県(うちサンパウロ州5)48市町村(うちサンパウロ州都市30)。他に民間交流団体が各地に組織されているが、リオ・デ・ジャネイロ市と姉妹都市関係にある神戸市が阪神・淡路大震災直後であったのは例外として、日伯修好100周年記念事業を行った具体的な事例は把握していないのである。
こうした京都ブラジル文化協会の積極的なプランニングと行動に対し、外務省中南米局をはじめ中央(東京)の日伯交流機関、団体から高い評価とともに絶賛が寄せられたのである。
